夏の宮崎訪問の時、「そう言えば、初めて日本に来たのは、ちょうど40年前だった」ということに気がついた。2年間フランクフルト大学で日本学などを勉強した後、1971年の秋、奨学金の旅行代を持って南回りで日本まで来た、高等学校の同級生のW君と一緒に。3月7日、船で台湾から鹿児島に到着し、すぐヒッチハイクで旅行を続けた。初めて泊まったところは宮崎だった。
ということを思い出した後、夏休みのドイツ滞在中、昔の箪笥の中からその時代の日記を探し出した。ちょっとだけ読んだら、「大使日記」の読者たちがこれを読むと面白いと思うのではないだろうかと、これからできたら時々ちょっとだけ昔の日記から紹介してみたいと思った。
もちろん全部そのままドイツ語からの直訳ですが・・・
では、お楽しみに。
1972年12月16日
最初に、合気道をするなら、それは週1、2回ぐらい、遊びのようなことだろう、と思った。だんだんと辛くなったと、まあ、夏までやって、それでやめて、スイミングクラブに入る、と思った。それで試験を受けて、出来た、だんだんと野心が大きくなってきた。これから4日間の特訓キャンプに行くことなのだ。行かない、と1回も考えたことがない。今のところ、将来にいつか自分でもヨーロッパでは合気道を教えることもできるじゃないかと時々思うほどだ。気がつかないうちに、合気道の世界に入り、囲まれて、沈んでしまったのだ。いま、W君、ナンシーなどに合気道の話をしたくても、彼らは本当に分からない気がする。話したくても、結局あきらめるのケース、よくある。ゲーテ文化センターの会話練習のとき、話してみたが、無駄。
只、どうしてそうなってきたのか。どうして沈んでしまったのか。
昨日M君と能楽を聞きにいったと、彼は、これを一緒に勉強しましょうかと訪ねたら、僕は出来ないと思わなかった。合気道でこんなに自信を育ったのか。(でも、能楽の勉強はしない!!!)
ということを思い出した後、夏休みのドイツ滞在中、昔の箪笥の中からその時代の日記を探し出した。ちょっとだけ読んだら、「大使日記」の読者たちがこれを読むと面白いと思うのではないだろうかと、これからできたら時々ちょっとだけ昔の日記から紹介してみたいと思った。
もちろん全部そのままドイツ語からの直訳ですが・・・
では、お楽しみに。
1972年12月16日
最初に、合気道をするなら、それは週1、2回ぐらい、遊びのようなことだろう、と思った。だんだんと辛くなったと、まあ、夏までやって、それでやめて、スイミングクラブに入る、と思った。それで試験を受けて、出来た、だんだんと野心が大きくなってきた。これから4日間の特訓キャンプに行くことなのだ。行かない、と1回も考えたことがない。今のところ、将来にいつか自分でもヨーロッパでは合気道を教えることもできるじゃないかと時々思うほどだ。気がつかないうちに、合気道の世界に入り、囲まれて、沈んでしまったのだ。いま、W君、ナンシーなどに合気道の話をしたくても、彼らは本当に分からない気がする。話したくても、結局あきらめるのケース、よくある。ゲーテ文化センターの会話練習のとき、話してみたが、無駄。
只、どうしてそうなってきたのか。どうして沈んでしまったのか。
昨日M君と能楽を聞きにいったと、彼は、これを一緒に勉強しましょうかと訪ねたら、僕は出来ないと思わなかった。合気道でこんなに自信を育ったのか。(でも、能楽の勉強はしない!!!)